母の命日

昭和48年たしか3月、2月だったかもしれない。

父が電話で話していた。

相手は叔母、母の妹だ。

「あと3ヶ月だっちょうぞ…」

母のことだと直ぐわかった。


叔母が私には話したのかと聞いたんだろう

父は私の方を向いて「ここにいらぁ。笑ってらぁ」

と返した。


2年前に乳がんの手術をして、放射線治療もして

子宮も取ってと入退院を繰り返していて、良くないことは子どもながらに分かっていた。  が、

信じられないことには反応できないもんなんだよな。



父も直接私に話せなかったんだと思う。

だからあえて私がいる時に叔母に電話したんじゃないかな。 


その後母の余命が3ヶ月だと言う話しは一切しなかった。


そしてある日母が退院してきた。

治る見込みがないので家でその時を待つ……

二間しかない狭い長家の一間に布団を敷いて

枕元には長さ1㍍くらいの酸素ポンベを置いた。

事情を熟知したかかりつけの町医者が 何回かやってきていた。



6月19日だったと思うが、

梅雨のまっさいちゅうなのにその日は晴れていた。

中学校の昼休み、掃除の時間だったか。

空が急に暗くなって大きなカミナリが幾つが鳴ったと同時くらいにもの凄い雨が降ってきた。 


なんかものすごーーく胸さわぎがした!


担任の先生が走ってきて

「送って行くから直ぐ家に帰りなさい。

おかあさんが〜       」


帰ると母は危篤状態だった。

酸素マスクのおかげで息をしているだけ。

かかりつけ医もいた。


それから3日後の午後 

口から鼻から耳から目から全てを排出して

魂も抜けてしまった。


父と弟と3人で抱き合って泣いた。



あれから50年が経ち母は神さまになったらしい。

だからタブーかもしれないけど先日お墓に榊を供えてきた。

私は母より16才も

年上になっちゃった😆



姿は見えないけど近くに感じることがある。

不思議だ。


でも会いたいよ、おかあさん!

祖母

明治生まれの祖母が亡くなったのは20年くらい前かな?

平成何年だったのか、何月だったのかまったく覚えてない。私にとってはそのくらいの存在だった。


少女時代なんちゃら小町と言われたくらいの器量よしだったらしいけど、養女に出されて苦労したようでそれが顔と

口から出る言葉に現れていた。


母が亡くなってから3年間は祖母が食事の支度をしてくれた。

昔のうす暗い台所で電気も付けずに朝は弟とふたりで、

夜はひとりで食事をしていたような記憶がある。

60歳代の祖母にしたら中学生の食事を作るのは嘸かし

面倒だったと思う。今この年になったからわかることだ。


13歳のある日

ごく普通に叔母と話していた私の言葉が気に入らなくて

急に本気で怒り出し💢 その後ことある事にその言葉を

赤の他人さまに 私に言われた と言ってた。

亡くなった母の事もなんやかや言ってたらしい。

それを聞かされた近所の人が私に

あんたっちおばあちゃんが………… て言ってたよ。 と

話しにきた。 

(祖母もこのおばさんもなんなんだろう😢) 

高校生になるとひとつ違いの従姉妹と比べられ、

就職が決まった時にも嫌味☹️



時が経ち そんな祖母も亡くなった。

葬儀会場に入ると

痴呆症を患い施設に入って生活していた時に写してもらったんだろう写真が遺影になっていた。


長くお付き合いしていたご近所の女性がヒソヒソ

誰かに話していた。

「見てごらん、可哀想にあんなにかくしゃくとしてたのに

ボケちゃってあんな顔になっちゃって、なんちゃらかんちゃら………」


遺影の祖母は、角がなくなり優しい顔で、

口を開けて楽しそうに笑っていた。


この人は本来こんな人だったのかもしれない、と

咄嗟に感じたら なんだか心がほっとして泣けてきたのを

覚えている。


言われた嫌味、切なさは消えないし無かったことにはできない。   けれど

もういいやっ て思えた。



でも時々思う。

私にはこの人の血も流れてるんだって。

ちょっと怖くなる。


だから謙虚に生きようと思う。

祖母に感謝だな。



見える景色

ふっと思った。


中学入学当時から今日まで  約50年くらい

身長が変わっていない。

自分が見ている景色は身長162センチの景色


150センチの人が見ている景色は?


180センチの人が見ている景色は?



身長の高さで見える景色が違うのだろうか……



どうでもいいことかもしれないけど

急に気になった…(笑)  どうしてだろう??


確かに膝を抱えて見る景色はちがうような気がする

し、アスファルトに近いぶん暑い🥵